ブログ版 空冷Zとの戦い

Kawasaki Z1Rに関するブログ?

オーストラリア一周旅行を終えた25年後、やっと言葉に出来ることがある

未だ報道されておらず、SNSで流れてきた投稿に基づいて書いていることなので、事実誤認があったら後に削除する可能性もある、という前置きで。

ざっくり言うとこういうことだ。
2022年10月2日の夜、20代のバイク乗りが日本一周の後、自ら命を絶つことを示唆する投稿があった。
宛名や病院名が加工で消されているため事実は分からないが「多動性障害」の診断書が投稿に添付されていた。
最後に投稿したのは栃木県日光市のダムで、投稿から1時間足らずの後、ダムにはバイクだけが遺されていて、後に警察の捜索も始まり、真偽のほどは不明だが遺体が発見されたと警察から連絡があったという投稿も。

彼と同じ20代で、オーストラリアをバイクで一周したり、世界のあちこちを歩き回った。
旅を始めた頃はやることなすこと、見るもの聞くもの全てが初めて尽くし。
気分も上々だった。

だが、ゴールがちらついてきた頃、旅が終わったら直面するであろう現実社会と今の自分にギャップを感じることもあった。
自分が朝から晩までスロットルを握っている間、同級生たちは汗水流して働いている。
いい気になって走っている道路も、夜に走れる灯りも、昼間に頑張っている人たちのおかげなのだ。
じゃあ、旅を終えた自分には、何が出来るのか。
そもそも、世間とうまくやっていけるのか。

そんなような感情が生まれていたことは事実だ。

が、今になって思えば、大した悩みではなかった。
幼い頃、友達とケンカしたり、自分の思い通りにいかないことで癇癪を起したり、さらには世をはかなんだこともあったけど、ティーンエージャーになってみれば「バカなの」と笑えるし、ティーンエージャーの悩みも10年20年過ぎてみれば「何であの時、そんなちっぽけなことで悩んでいたんだろう」と不思議に思うことも多々ある。

30代40代になっても深刻な悩みはついて回るし、やっぱり世をはかなむこともあるけど、70代や80代になってみたら「この歳になってみろ、自分が死にたいかどうか関係なく、死と隣り合わせの毎日だぞ!」と一喝されるかもしれない。

そうはいっても、年下の人間は年上の説教なんか耳に入らないものだから、あえてアドバイスをするとするなら

「自分を疑え」

である。
自分も含めて、悩みを抱える人間は、たいてい100点満点とは程遠い人生を送ってきた連中ばかりだ。
何で100点を取れなかったか、それは大なり小なり人生の分岐点で間違いばかり選択しているからだ。

ということは「世をはかなむ」という選択も、往々にして間違っていると判断するのが論理的だ。
間違っている選択が多いのであれば、どこかで修正できる余地をもった道を選んだ方がいい。
この大宇宙では、いまのところ「死」を選択すると後戻りはできない。

先々を見据えた気になって「どうせ、こんなもんだろう」と悟ったようなことを言っても、満足に勉強も努力もしてこない人間の判断だから、デジタルネイティブたちが蔑視する、まさに「情弱」の極みであって、悟りとは程遠いものである。
  
死に様に正しいも間違っているもないかもしれないが、残された者たちの時間や労力を浪費させるのは事実である。
本当に人生にケリをつけたいなら、お金を貯めて海外に渡って地雷のひとつでも撤去してから死んだらいい。

それが出来ないのであれば、死ぬ前に、著者や出版社が実名と社名を出して責任をもって出版した本を100冊くらい読んでから、それが本当に正しいかどうか判断したらいい。
一冊1000円そこそこの本を100冊買っても10万ちょいだ。
金がないなら、どうせ死ぬんだから踏み倒すつもりで10万くらい借りたらいい。

もし、100冊の本を読んで「人生とは何だ」「人は何故生きるのか」という疑問が続くのであれば、それがやっとスタートラインだ。

歴史に名を残すような偉大な哲学者たち、彼らもまた同じ悩みを抱えながら、生涯をかけて謎の究明に取り組んでいたのだ。

彼らのようになれるかどうかは別として、人生を賭けた謎解きに取り組むのも悪くないかもよ?