ブログ版 空冷Zとの戦い

Kawasaki Z1Rに関するブログ?

哀悼

報道されることのない不幸や惨劇もあるんでしょうけど。
この頃、いたましい報道が多過ぎる。

いずれも加害者、被疑者、容疑者がいて、そこには同情の余地はないのだけれど、自分が似たような立場になった時、正常でいられるだろうか。
他人を巻き込んだりすることはないにせよ、自暴自棄になったりしないだろうか。
もし、そんなふうに思ったりすれば、自分もまた少しは似たような性質を持っているのではないかとも思う。

これらの事件との因果関係の有無については分からないが、いまの世の中は、少し窮屈過ぎる。
学校の先生は生徒や児童を「さん」づけで呼んだり。
ちょっとでもおかしなことをWEB上で書くと、見知らぬ人から叩かれたり。

もちろん先生の体罰は良くない。
叩かれ殴られて育った自分だから、そう思う。
でも、叩かない、殴らないから、愛情があるのか、と言われたら違う気がする。
最終的に「先生」は、コンビニの店員や自動車整備士と同じ、ただの職業のひとつとなった。
いまさら「先生は職種じゃないです。先生という生きざまです」といったところで、先生たちが首を縦に振ることはないだろう。

そんな先生たちの相手、子供たちも悪さをしたり、騒ぐのが当り前だった。
物静かな子供の方が、周囲からいつも「だいじょうぶか?」と心配されていた。
でも、いまは、騒ぐ子供たちは世間から厳しい目を向けられる。

保育園や幼稚園にクレームを入れる周辺住民のニュースはひとつやふたつじゃないはずだ。
自分だって、仕事に追い込まれ、疲労困憊している時、子供たちの声が癒しとは真逆の性質をともなって、心を逆なですることもある。
でも、それは、何日も続く雨や雪、電車を待っている間の強く冷たい風と同じ自然現象なのだ。
年端のゆかぬ子供たちに、大人が創り出したルールやマナーを摘要するのは、高気圧に覆われた日本列島の真下で雨乞いをするのと同じ位ナンセンスなのだ。

「~をしてはいけない」
「~はダメ」

何かを禁止したり、否定することをリストアップしろといったら、多分、誰でも簡単に10や20は思いつくのではないだろうか。

でも、何をどうしたら、みんなが、少なくとも自分に近しい人たちが素敵に過ごすことが出来るのか、アイディアを出せといわれたら、どれだけのことを思いつくだろうか。

自分たちがつくった世の中に、追い詰められ、逃げ場を失っているのではないか。
本来は便利であるはずのネット、アプリも楽しいことを表現する場ではなく、不用意な発言のユーザーを狩り出すためのネット(罠)となった。
いまでは、多くの人が「ナンセンス」と思うであろう魔女狩りや宗教裁判とそう変わらないことを我々もまたネット上で繰り返しているようでもある。

「~ねばならない」
から
「~をやってみよう」
に舵を切っていく方が、豊かな日々を送れるのではないだろうか。