気がつけば20歳、30歳…というフレーズなんてウソだと思ってた。
たとえ祝福されないまでも、行政的な手続き(免許の更新など)で定期的に自分の誕生日や年齢がお知らせされるし、進学、就職活動、病院の診察そのほか諸々で、なんだかんだいってよそから知らされるからだ。
ところが40代後半になった頃だろうか。
誕生日はいいとして、自分の年齢がよく分からなくなってきた。
何歳、とパっと言えなくなってしまったのだ。
去年だかおととしまでは、1歳多く勘違いして、同級生に指摘されて気づいたという。
自慢するように聞こえたら申し訳ないが、記憶力はかなり良い方である。
神経衰弱ゲームみたいなのは別としても、いつ、誰とあって、どんな話をしたか、それがいつだったか、というのは克明に覚えている。
なぜ覚えていないのか。
自分なりに理由を考えてみたが、おそらく年齢が実生活に与える影響がなくなってきたからと思う。
たとえば学生や20代の頃は同級生か同期なのか、話題になる。
30代も、まあそんな感じで誰かと年齢を比較することがある。
40代になってくると、年齢よりもキャリアとか、何が出来るのかどうかが話題になるから「年齢」でカテゴライズ出来なくなる。
転職活動は、ちょっと違うかもしれないけど。
実際、年齢が上の人に指示を出すこともあるだろうし、自分よりも随分年下の人と一緒に働くこともある。
プライベートも似たような感じになる。
遊び友達だって年齢は千差万別だし、よほど近しい関係にならない限り、年下の人たちにも敬語で接する機会が多くなるし、年上の方からも敬語で話しかけられるようになる。
社会人になってある程度過ぎると男性は「オッサン」という大きなくくりに放り込まれてしまうので、年齢が重視されなくなるからなんだろう。
もうひとつ思うのは、50代になって、これからどうするのか。
高齢化社会に突入しているものの、多くの会社では60代で定年を迎える。
経営者やフリーランスは身体が動く限り、60代を迎えても関係なく同じ仕事を続けるだろうけど、労働人口の90%を占める(2022年の労働力調査による)「雇われ労働者」は65歳あたりでリタイアする。
よほど裕福じゃない限り、または元の勤務先に請われたら同じ職場で「嘱託」のような形で再就職するのだろうけど、そうじゃない方が大半だろう。
30代くらいだと、まだピンと来ないかもしれないが、50代になると10年なんてあっという間だ。
10年くらいすると、社会に放り出されるのだ。
職人や技術者のように特殊なスキルやノウハウがあれば再就職は難しくないかもしれないが、雇われ労働者にとっては大きな問題だ。
自分のようにフリーランスでもあり経営者でもあり雇われ労働者でも、そこはかとなく危機感を持っている。
少子高齢化であちこちで人材不足だから仕事を選ばなければ何とかなるのかもしれないけど、高齢になるにつれ変化への対応が厳しくなる。
よく定年後に老け込むという話を聞くけど、やることがなくて萎れるのではなく、環境や置かれた状況に順応できない精神的ショックで心も体も委縮してしまうのではないだろうか。
そして、その未来がすぐそばまでやってきているという現実に押しつぶされそうになる、それが50代の我々を蝕んでいる。
50代の我々に救いは無いのだろうか。
いや、そんなことはない。
たとえば日本地図を作り上げた伊能忠敬は、それまで地図作りも何も知らなかったのに着手したのは50歳を過ぎてから、しかも最初の測量に向かったのは55歳を過ぎてから。
彼が生きていた1700年代初頭、日本は江戸時代。
50代で死ぬ人も決して少なくなかったはずだ。
伊能忠敬は、偉業達成の夢や目標があったから、つまりモチベーションがあったからこそ頑張れたのだ、という意見もあるかもしれない。
たしかにそうかもしれない。
前向きな気持ちは人の背中を押してくれる。
じゃあ、こういう人はどうだろう?
奇しくも伊能忠敬が地図作りのプロジェクトを始めた頃、宮城県塩竃市(塩釜市)は寒風沢(塩釜市の離島)出身の津太夫という男性がいた。
伊能忠敬とは同世代で、石巻市で長距離運搬船の乗組員、いまでいう長距離トラックのドライバーのような仕事をしていた男性がいた。
いつものように、米や木材を積んだ船で南を目指していたのだが、彼の勤め先だった石巻発の船が1793年11月に福島県いわき市沖で暴風により航行不能になり、半年以上も過ぎた1794年11月、アリューシャン列島のひとつに漂着、当時のロシア帝国に救助される。
ロシアでの待遇や生活については割愛するが、およそ10年余りのロシア生活の後に日本を目指してロシア東部のクロンシュタットを出航。
アフリカ大陸の西側を抜けて南米大陸の南側から太平洋を横断、長崎に到着したのは1804年。
本人が望んでわけではなかったが、ロシアに漂着したのが50歳、日本に帰国したのが61歳。
一緒に漂流した乗組員の中には病死した人もいる。
ロシア正教の洗礼を受け、ロシア人として帰化して不自由なく暮らした乗組員もいたが、津太夫をはじめ一部の人間たちは頑として聞き入れなかった。
おかげでロシアでの生活は非常に苦しかったのだという。
やっとの思いで日本の地を踏んだにも関わらず、帰国後、厳しく詮議されたうえ自殺しちゃった人もいたわけだから、相当大変だったはず。
それでも津太夫は塩釜の寒風沢に戻り、70歳まで生きた。
実は、この津太夫さん、成り行きとはいえ、日本人初の世界一周を達成した人物であるが、あまり知られていない。
もっと塩釜市でも讃えるべきだとか、確かにそういうこともあるけど、そこじゃない。
津太夫と同じ時代に生まれ、こちらは教科書にも載っている有名人、伊能忠敬が日本地図の作成に着手したのは津太夫が漂流してロシアで暮らしていた頃。
伊能忠敬も50を過ぎてから天文学を学び、地図作りを始めたのは55歳になってから。
望まざる人生の変化が訪れてもなお、再度故郷の地を踏むまで生き抜いた津太夫。
目的のために勉強をし直して、新しい仕事に取り組んだ伊能忠敬。
300年も昔の人たちが、50を過ぎても偉業を成し遂げたのだ。
人生100年と言われた現代の我々なら、まだまだこれからだ。