ブログ版 空冷Zとの戦い

Kawasaki Z1Rに関するブログ?

オーストラリアよりZイズムを込めて 2016

1997年7月。
住み慣れたシドニーの街を出発してから、2ヶ月が過ぎていた。
西オーストラリア(WA)の州都、パースに辿り着いた頃、マシンも身体も随分とくたびれていた。

この10日ほど前、ダート・ロードで転倒してバイクのフロントが大破。
数日前には転倒でマシンの下敷きになって右足首を捻挫。
エンジンはオイルを食うようになり、頻繁にオイルを継ぎ足していた。

自分の身体は放っておけば何とかなるにせよ、バイクは時間が過ぎても直らない。
どうしたものかと悩んではいたが、パースには多少「当て」があった。

当時、Z Owners Club NSW支部の首領だったビンキィ・ロミンスキーが「向う見ずな日本人が2型のZ1Rで旅に出ているから、よろしく頼む」と各支部に回状を送っていてくれたのだ。
ビンキィを信じ、WA支部の首領、ジョン・ベイマンにおそるおそる電話をかける。
すると「そうか、よしよし、よく来たな。ビンキィからは聞いてるぞ」
と、こっちが驚くほどの大歓迎。

ジョンが「この男がお前の面倒を見てくれる。歳も近いから話しやすいだろう」と紹介してくれたのが、身の丈2mはあろう大男、マット・アームストロングだった。
マットは日本のZ事情に通じているのか、塗装やアクセサリーに凝る豪州風のカスタムではなく、ロードライダーやBGに登場するような、スパルタンな雰囲気にカスタムしていた。

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Kawasaki Z owners club WA のPresident ジョン。
Z1R乗りは、Z1R乗りに優しい(笑)。

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1997年7月。パース郊外の丘から街を見渡す。
マットのZ1000は、まだまだ進化の途中。
2014年末には、こんな風に…


マットは、いつもサングラスをかけて、表情が読めない男だったが、街のあちこちを案内してくれたほか、仲間たちに頼んでエンジンをオーバーホールしてくれた。

帰国後もマット氏とは手紙をやり取りしたり、インターネットが普及してからはICQ(覚えてる人、いるだろうか)やSNSなどで連絡を取り合った。
結局、Zオーナーズクラブのメンバーで、いまなお連絡できるのは、マットだけとなった(つい最近、ジョンと奥さんのリナと連絡が取れるようになったが)。
マットは何度か来日、仙台まで遊びに来てくれることもあった。
とはいえ、非常に短い滞在で、バイクとは絡むことのない、ごく一般的な旅行客として過ごすだけだった。

その後、オーストラリアのZフリークスたちが日本でZを買い付け、鈴鹿8耐を観戦するとか、こちらからオーストラリアに行ってフィリップアイランドまでGPを観に行くだの、いろ

いろな計画があったが、東日本大震災の影響もあり、いずれも頓挫。
それから、特に我々の間で新しい話もなく、季節の挨拶やSNSでお互いの生活を眺める程度だったのだが…

2016年2月、突然マットから
「7月に日本へ行くことにした」
とメッセージが!

続く