塩竈市の東北本線塩釜駅のある辺り、あそこがオレのホームタウンなんですがね、とうとう本屋が消えたのよ。
以前、二十年位前は、徒歩または自転車で行ける本屋が三箇所はあった。
紀伊國屋みたいに品揃えはなかったけど、なんつーのかな、人間は少なからず本に育て上げられると思うのよ。
その本と出会ったから、今の自分がある、といった、奇跡的な出会いが。
オレたち大人は車もあるから遠い本屋にも行けるし、中高校生なら仙台か、海っぺりのジャスコとか。
でもガキんちょは?
あの近辺の子供には、好きな時、本屋に行くチャンスがないのだ。
子供だもの、たいした本なんか読まないよ、と捨て置くとしたら、それこそ教養のない話。
なんだか分からないけど、試しに手に取ってみて、頁をめくる。
やっぱりつまらないかもしれない。
レコード(あえてCDとはいうまい)のジャケ買いと同じで、インスピレーションが重要であり、しかし本の場合は中身を読むことが可能である。
この動作が重要であり、人生を変える、それこそモノリスみたいな、個体進化をさせるほどの本に出会える機会を、あの地域の住民は奪われたのですよ。
大袈裟かも知れない。
思えば他の国でも、本屋がない街もたくさんあったし。
でも、それは元来本屋がなかったわけで、減ったのではないと思う。
インターネットが情報収集の手段として普及し、凄く便利なのは事実。
ピンポイントで調べる時は、驚くほど効率が上がる。
しかし、情報が正確になり、無駄が削ぎ落とされるほど、画一的になる。
本屋、あるいは図書館でもいい、あんな風に本の中に囲まれると、目的以外の本に目をやり、これはどうかな?と手に取る。
さっきの例と同じ。
この一見無駄な動作が、意外によい結果だったり、多様化を生むんじゃないかと思うんですよ。
だから、凄く残念。
本屋、復活しないかね。