ブログ版 空冷Zとの戦い

Kawasaki Z1Rに関するブログ?

昔を懐かしんでばかりいるのは、あまりよくないことだけど

ひょんなことから(もうすでに、死語)、1990年代のオーストラリア生活を書き留めているコンテンツを見つけたのが数年前、再度アクセスしようとしたら閉鎖されて、ドメインが他者の手にわたってしまい、読めなくなっていた。

1990年代の豪州におけるワーキングホリデービザは1年が最長なので、たとえば1995年に滞在していた人と1997年に滞在していた人は、完全に時期がズレてしまって邂逅のチャンスは無かった。

自分のように何だか適当にイミグレーションで主張して、あしかけ2年近くビザを出してもらえたのは稀有なパターンで、今思えば、その辺は審査官の裁量にゆだねられていたのではないかと思う。

さて…

1997年にオーストラリア大陸で好き勝手やってきた自分が、およそ20年の時を経て2018年にオーストラリアのアウトバックを旅できたのは、昨今の新型コロナウィルス感染拡大を考えれば本当にラッキーだった。

1990年代、あの頃はまだ日本も弾けたバブルの残り香というか、まだ墜落途中というか、墜落ではなく滑空状態でしょ、てなものだった。

言い方は変だが、まだ何とかなるでしょう、あるいは、いまによくなるだろう、という根拠のない感覚がうっすらと広がっていて(ご存知の通り、その後、失われた●●年という横ばいという名の没落が始まる)、そんなに悲壮感は無かった。

90年代のオーストラリアをはじめアジア諸国は経済的にそれほど豊かではなく、日本でつくった100万円は向こうでは大金以上の価値を持っていた。

だからオーストラリアへ渡る若者はかなり多く、街を歩けば「こんなにも日本人がいるのか」と驚くほどだったし、観光地におかれるアクティビティのパンフレットには、たいてい日本語版も置かれたり、かなり大きな観光名所には常時日本人がいるデスクがあったので、あまり苦労することなくオーストラリアを旅することが出来たのではないだろうか。

特に何処へ行ってもワーキングホリデーの若者たちは居て、グレイハウンドのような長距離バス、そしてオートバイで旅するライダーも多かった。

あれだけ国土が広いのに、キャンプ場やロードハウス(ドライブインのようなもの)には、必ずと言っていいほど日本人ライダーたちとすれ違った。

 

多くが消去されてしまっているが、当時の様子を書いたブログなどのコンテンツには、日本人ライダーたちの偉業、悪行の限りがつづられており、そういう連中との出会いが旅に彩をそえてくれたのは間違いない。

いまでも交流のあるライダー(元ライダーと言ってもいいかもしれない)もいるのだが、その多くは、時の流れと共に連絡不通となり、加藤登紀子の「さくらんぼの実のなる頃に」ではないが『どこにいるのか、いまでは分からない友達も沢山いる』のだ。

 

2018年に訪れた時、日本人に取って代わっていたのが中国人だった。
1990年代以降、目覚ましい発展を遂げた中国は、貧富の差はあるものの、日本人の総人口よりも多い「富裕層」たちが世界各地の観光地に押し寄せ、バブル期の日本人のように闊歩している。

ためしに、日本人の多くが訪れるアリススプリングス、1997年に滞在したユースホステルを訪れて「いま、日本人はどれくらい泊っているの?」と訊いたら、たった1名だけだった。
当時10ドルくらいで宿泊できたバックパッカーユースホステルも軒並み値段が上がり、小銭で宿泊できたキャンプ場も30ドル、40ドルは当たり前。

最低賃金が時給25ドル近くまで上がったオーストラリアなので、もろもろの価格が上昇したのは仕方ないとはいえ、この20年で賃金の差は2倍になった。

1999年代の100万円は15000ドルくらいの価値を持ち、しかも物価がかなり安かったのでそれなりの価値を持っていたが、2020年代のいまでは半減したといっていいだろう。

ということは200万円用意しても、当時の我々と同じような生活が出来たかというと怪しいものである。

つまり、昔のような「貧乏旅行」が不可能となり、お金を持っていなければ楽しめない国になってしまった…というより、相対的に日本の経済力が落ちてしまっているのでこうなってしまっているんだが。

他にも行ける国があるからいいではないか、と思うかもしれないが、世界中あちこちを回ってみたからこそ言えるのだが「バイクで旅する」を前提にするならば、オーストラリアは初心者にもベテランにも楽しい国だ。

砂漠地帯をはじめとするアウトバックの未舗装道路を走ることもできれば、オンロードをひたすら走るだけでも楽しめる。
Moto GPやグランプリが開催されるくらいだから、古くからモータースポーツが盛んで、部品の入手だけではなくショップのノウハウも一定レベル、マニアやエンスーもいるから何かトラブっても安心だ。

さらには国土が広く、各地にキャンプ場があるほか、整備はされていないものの、路肩を拡げたようなキャンプ場もあるから、野宿には苦労しない。

とにかく、おもしろいライダーたちが沢山いた時代だったのだ。
すでに閉鎖(もしくは移設)されたサイトからの参照になるのだが、これを読んだだけでも、本当に面白い。
貼り付けておくので、読んでもらいたい。

※無断掲載になるので、もし問題があれば、お知らせください。

今回は困った人オノさんと、アンソニーのことを書きたいと思います。二人ともライダーですが、まったく対照的な歴史を作りました。私とは出入国入れ違いで、二人には会えませんでしたのですが。まず、オノさんはあまり単車に乗れていないライダーのようです。それなのに、他のライダーが行っているというだけで、ガンバレルという砂の道へ冒険に出てしまったようです。ガンバレルは単車のフレームさえ折るようなすごいダートです。

案の定彼は遭難しました。原因が最低で、なんとただのガス欠です。ガンバレルは砂漠地帯の上、走る車は砂漠ツアーの四駆がちらほらなので、彼はしばらく孤独を味わったあと、即入院という状態で救出されました。

命だけは助かったのです。問題はここからです。この事件がマスコミに知れるや、「そばに水たまりがあったのにオタマジャクシがいたので飲まなかった」などと騒がれ、豪州国民の大顰蹙をかいました。新聞に顔写真が載ったのみならず、テレビにまで報道されたんです。

常に遭難と隣り合わせの豪州人にとっては、生き残るために汚水を飲むことなどなんでもないのです。それどころか、荒野の街の井戸水は塩分を含んでいるので、溜めた雨水を飲むのが一般的です。

日本人の潔癖さは、この国ではただの軟弱でしかありません。彼を捜索する間、砂漠ツアーなどは全滅でした。つまり、仕事にならず大損害となったのです。

同様に、ライダー達も含めて全面立ち入り禁止となりました。残りわずかの滞在期間にガンバレルを走ろうとした人達が、涙をのんで引き返したそうです。初め私は、オノさんに好意的立場でした。しかし情報が集まるにつれ、立場は逆転しました。

退院後は邦人ライダーの怒りを恐れて某所に潜伏しながらも、日本の友人を呼び寄せ、反省するでもなくゴールドコーストで遊んだということです。同時期の人物で、逆に私が仰ぎ見た人物がアンソニーです。

ダッチワイフをリアシートにくくりつけて豪州を一周したライダーです。あだ名の由来はダッチワイフの名前がキャンディだったため、女の子達に呼ばれたのが始まりだそうです。彼はそんな馬鹿げたことをしておきながら、ダートを走る技術は相当なようで、豪州の過酷なルートのほとんどを走破したそうです。

私はタナミ砂漠を横断している時、西豪州の州境の看板に彼のサインを見て「彼は実在したのか」と驚きました。そうです、私は最初は彼を実在の人物だと思っていなかったのです。

彼の存在がなければ、私もエアーズロックでフルートを吹くことはなかったでしょう。たとえ馬鹿げていても、この豪州に私が来たことを示すなにかを残したい、そう思って、エアーズロックではまだ誰も吹いていないフルートを吹きました。

なおダッチワイフには笑い話があって、連泊していた近所のガソリンスタンドに行くと、スタンドのおじさんが「どうしたい、彼女元気がないよ」といって膨らましてくれたそうです。こうしてたくさんのエピソードを作ったキャンディは、その後かわいそうなことにW.A北部のギブリバーロードで紛失になりました。

彼ら二人は、私が豪州を廻る上での「日本人観光客」という命題の重要な資料として、たえず念頭にありました。自分はオノさんにはなるまい、と思ってダートを走り、アンソニーになろうとしてフルートを吹いたわけです。

付記

江戸っ子「天皇」とダッチお姉ちゃん

豪州一周後、私がシドニーに帰ると、名物男「天皇」がトウキョウビレッジに居座っておりました。

なぜ彼が「天皇」と呼ばれたかというと、前の昭和天皇陛下の御尊顔に非常に似た顔だったからです。彼はもともとチャリダーで、後進の輩のためにとノウハウを詰めたノートを、トウキョウビレッジに残した男としても有名です。あまりに良くできた情報ノートだったのでベタボメすると、照れながらもいろいろ解説してくれました。

さて、そんな彼がやったのがダッチお姉ちゃんを後ろに積んでナラボーを渡ることでした。自転車で夏のナラボーを渡るなんて自殺行為ですが、それをビニール人形積んだままやってしまうんだからたいしたものです。名前は忘れましたが、ダッチお姉ちゃんは処女のまま(笑)パースに着き、RBPでしおれているのを見ました。その後96年のエアーズロック大集合で空気の漏れた穴へパッチを当てられた彼女は、エアーズロックをバックに空へ舞ったそうです。

さて、一方天皇は(たしか)96年の正月明けにシドニーからエジプトへ旅立ちました。「最初トウキョウビレッジの皆に受け入れてもらえるかどうか心配だった」と話した天皇も、最後は30人からの友人に囲まれて、涙の出発をしました。今でもあの時の空港ロビーを思い出すと胸が締め付けられる思いです。と、センチなエンディングのつもりでしたが、今思い出したことに「君が代イッキ」というエピソードがありました。天皇に酒を飲ませるとき、たとえ本人が嫌がっていても、皆で君が代を歌うとイッキせざるをえない状況に追い込むことが、なぜかできました。なぜ?