想像もしていなかったけど、いつの間にか齢(よわい)50を過ぎていた。
TPOをわきまえることもなく、何処へ行くにもレザーとデニムでウロウロしていた20代。
怖いもの知らず、というより世間知らずだったんだと思う。
あれから、随分と世の中を見てきて、自分が世の中で通用する、と思ってきたことは、ほんの一握りだった。
好き勝手やって、いい気になって、調子に乗ってたのも、世の中の多くを占める真面目でコツコツやっている人たちが作り上げたものがあるからできたことで、アタマのいいヤツらは、それを若いうちから気づいているんだけど、肝心なことが見えてこないせいで、理解するまで多くの時間を要した。
数多くの失敗や経験を積んで、ようやく大人になってみると、若い連中の無謀さ、無策さに気づき始めるもんだから、ついつい声をかけてしまう。
子供の頃、教科書か何かでこういう話を読んだことがある。
アメリカだと思うけど、ネイティブアメリカン(インディアン)は、子供が刃物をいじりだしたら「危ないよ」と声をかけることなく、見守るのだそうだ。
よほど大けがするようなことがなければ、ちょっと使い方が怪しくても、刃物を取り上げたりしない。
ついには、指や手を切ったりすることもあるのだけど、子供たちが自分で「痛み」を理解するまで、黙っている。
それが、彼らの教育なのだそうだ。
「危ない」といって刃物を取り上げたり、ひとつひとつ手取り足取り教えるのは簡単だけど、それではいつまで経っても独り立ちできない。
大人の我々が必要なのは、言いたくなる言葉をぐっとこらえて、知らんぷりして黙って見守ることだ。
わかっちゃいるけど、つい心配になって、あれこれ口を出したり、余計なことをする。
タイムマシンがあって20代の自分がやってきたら、そんな自分に煙たそうな表情で吐き捨てるだろう。
「大人がいちいち口をはさむな」と。
あの頃の自分も、それこそタイムマシンがあったらやり直したいほどのヘマをやらかして今がある。
多分、大人は失敗の塊で造られていて、失敗した分だけ、二度と失敗しないための答えを持っている。
出来のいい人間は、大人や年寄りの失敗をよく観察して、人生の参考書にするだろうけど、答え合わせばかりの人生が人を強くするとは限らない。
一か八かでチャレンジできるのは、若者の特権だ。
身体と心に刻まれたキズは、チャレンジの裏返しだ。
われわれ大人や年寄りは、若者が挑戦する機会を奪ってはならぬ。
黙って見届けて、失敗してボロボロになった時、そっと手を差し伸べる。
それがいい。
それでいい。
いつの間にか、小言を言うようになった自分への戒め。